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二八そば

 江戸のそば屋は最初「生そば(十割そば)」でしたが、切れやすかったので、次に「蒸しそば」が出現しました。しかしこれは長続きせず、すぐに消えたようです。
 ツナギに小麦粉を使うのを教えたのは寛永年間(1624~1643年)奈良東大寺に来た朝鮮の僧侶元珍だったという説があります。
 「二八そば」という言葉が出てくるのは、「けんどんそば切」より遅れること二十数年との事です。ただし文献に登場したのがという事なので、出始めが何時かははっきりしません。
 
 さて、ここで何時も問題になるのが、「二八」の意味ですね。ツナギに小麦粉を2割入れるので「二八そば」か、或いは2×8=16で、そば代16文から来ているのか。ただ、そば代が16文になったのは江戸時代もかなり過ぎてからの事のようで、「二八そば」が文献に出だしたころはまだ8文から12文の事だそうですので、やはりツナギ説の方がより説得力があるのではないでしょうか。逆二八説というのもあるようで、蕎麦粉が2で小麦粉が8、これではとてもソバとは言えませんし、それが一般にソバとして通用したとも思えませんので、この説には無理があると思います。
 
   ――――   追記(というか、ここからが本番)   ――――
 
 と、ここまでは浅はかで無難なうんちくです。でも、一冊の本を読んで考えが変わりました。本の名前は「蕎麦と江戸文化―二八蕎麦の謎―」(笠井俊彌著・雄山閣出版)。二八そばだけで一冊の本を書いています。
 まず、「ツナギ説(ツナギに小麦粉を2割入れるので『二八そば』)」がおかしいのは「二八うどん」というのが「二八そば」と併記されている事がある、という事です。これではツナギ説は成立しません。
 この笠井俊彌氏の説は「そば二杯で十八文」が「二八」になったというもの。これだけ見ればかなりの無理があるようですね。なぜ二杯なの?なぜ十八が八に?この謎解きは、江戸時代は仏前・墓前に添えるもののようだというので一杯を嫌った。だから二杯食べるのが基本だった。また、明らかな十、或いは二十などははしょり、一の位だけを言う習慣があった。とい言う事です。その根拠となる文献を多数、延々と上げています。よく調べたと思います。その当時の蕎麦の値段は一人前八文程度です。ですから二杯で十八文はいい数字です。
 
 ちょっと待て、二杯を基準とするのには私も賛成です。蕎麦切りのはじめのころは「もり」だけです。それを一人前二杯とするのが常道だったようです。二杯と書きましたが、せいろなら二枚ですね。今でも、時々せいろ二枚で並のもりとして出している所があります。それが一人前です。だとすると、その二枚(一人前)で八文と考えるのが普通じゃないでしょうか。笠井俊彌氏は二杯は二人前と勘定しているようです。これではせいろ四枚になってしまいます。あるいは二杯一人前とするなら、十八文は高すぎます。これはうなずけません。
 私の説は「一人前、せいろ二枚で八文のそば」=「二八そば」です。こちらの方がすっきりしているように思うのですが。これなら「二八うどん」も同じように説明がつきます。
 さて、私の説に賛同してくれる人がいるでしょうか。
 
 だからと言って「二八=十六文説」や「ツナギ説」が間違いではないのです。江戸後期には確かに「二八=十六文」で「二八そば」と看板を出していました。また、現代は殆んどみなさんツナギに小麦粉を2割入れるので「二八そば」と思っています。時代が変われば意味も変わるという典型です。ただ「二八そば」という言葉はどうやって出てきたかというルーツの話でした。
 
    <参考図書 『蕎麦と江戸文化―二八蕎麦の謎―』 笠井俊彌著 雄山閣出版>
    <参考図書 『改定新版 蕎麦辞典』 植原路郎著 中村綾子改定編集 東京堂出版>